カズオ・イシグロ待望の新作長編「クララとお日さま」読了からしばらく経ちました。ようやく徐々に気持ちが整理できてきたので感想書きたいと思います。
どんな本かと言うと、出版社の出してる粗筋を引用します。
子供の愛玩用に開発された人工フレンドのクララ。好奇心旺盛で店のウィンドウから外の世界を観察するのが大好きだ。ある少女の家庭に買われていったクララは、やがて一家の大きな秘密を知ることに……愛とは、知性とは、家族とは? 根源的な問いに迫る感動作
カズオ・イシグロの長編小説は全て読んでいます。
今作も最高でした。。。もういろんな気持ちがわきおこってくるし、様々な点を考えさせられます。すごく美しい話、、、だけども山ほど問題を感じます。話はシンプル極まりないのですが、なんでこう読後にこんなに複雑な味わいを残すのか。。。
この複雑な余韻、あじわいこそカズオイシグロの文学パワーだなあ。もう圧倒的に普通じゃない筆力というか。。。そして作品の品格とでもいうべきものが、他と隔絶してる気がしてならない。
こんなにも心が揺さぶられる作家さんは他にいないです。読後、余韻が消えない。
まあ、要は大ファンですねw
さて感想としてはとても一言ではいえませんが、あえて1行でいうとするならば、今はこんな風に感じます。
美しく優しく切ない物語。そして不自然で残酷で不穏な物語
さて、ここからはある程度、小説の内容にもふれてしまうので、知りたくない方は引き返してくださるようお願いします^^
美しく、優しい物語。しかし、、、
文のスタイルが、「忘れられた巨人」の3人称から、従来のように1人称に戻りました。
しかも、その1人称は、AF(Artificial Friend)のクララ。今作はAIのクララ目線で世界が語られています。つまり作中で語られていることはAIの認識であるということです。
AIであるクララを通しての世界や人物ですので、その認識はどうなんでしょう。どこまで信用できるものか。
クララはどこまでも優しく一途です。病気がちなジョジーのために最善を尽くしています。そしてクララの目線を通じて徐々に、断片的にあきらかになるジョジーの家族のこと、友人との違い、物語中の社会事情。
これらの断片的な事情をあれこれ推測しながら読み進めることになります。どこか不穏です。
時折感じる違和感は、クララが十分に学習していないためにクララ目線では理解できないから?それともクララが知らない、あるいは語っていない真実があるのか?
こうして読んでいて、その作中に入り込みながらも、その世界の輪郭がはっきりせず、歪んでいるような、、、一枚めくったら恐ろしい真実が飛び出してくるような、心許なく不安定に感じる気分が、読み進めていく中で常に足元にあります。
カズオ・イシグロ作品に共通してる、この感じ。どなたかが低音が鳴ってる感じと言ってたのですが、まさにそうですね。
聴こえるか聴こえないかくらいの超重低音が、ごく微かにでも確実にずーっと鳴っている、そんな感じの緊張感、不穏な雰囲気があるんですよね。
さて、クララはどこまでもひたむきです。ジョジーの病気が治るように、一心にお日さまに祈るシーンはじんときます。
しかしAIがこの非科学的とも言える信仰的な思考をすることにも不穏さが潜みます。
ある時、死んだはずの(とクララは思った)ホームレスと犬が生き返ったのをみて、クララはお日さまに「特別の栄養」があることを信じるわけです。そしてクララは、お日さまにその特別の栄養をジョジーにも与えてくださいとお祈りし、そのためにお日さまに害をなすとクララが信じている街の清掃車(?)を破壊します。
それはロボットがしてはいけないことだし、そもそも、そうすればお日さまが助けてくれる、というのはあまりに素朴で子供っぽい考え方です。
つまり、クララは極めて人間的です。
このクララの祈りは美しくも、読んでいて不安を感じました。
それは、太陽がジョジーの病気をなおすことなんてありえない。クララの祈りは無駄に終わるだろうという心配であり、しかし同時に、超知能であるクララは人間に理解できない因果関係を見通してる可能性も残されています。リックがそうであるように、それに対する畏れはある。
また、AIがあることを信じこんでなにか行動を起こすということ自体の恐怖もありますね。だから祈ってる姿は美しいし心を打たれるけど、どこか不穏なのです。
さて、お日さまへの祈りと並行して、ある恐ろしい計画も進行しているのですが、クララはそれにも全く動じず、尽力することを約束します。
これは極めて非人間的な割り切りのように思えますが、しかしそもそも計画して推進してそうするようお願いしているのは人間です。しかし少しの葛藤もないクララは人間的とは言いにくいでしょう。
さてこうなると、AIと人間との間で、いわゆる「人間性」に違いはあるのでしょうか?
クララは本当はどう思っているんだろう?最後の店長さんとの会話でも、クララは変わらずに前向きです。幸せだった。特別だったと言い切ります。AIだから感情はない。クララが語るとおりかもしれない。
でもお日さまに祈るクララは、幸せだったと語るクララは、店長さんに再会して嬉しく思ったクララは、ひょっとしたら人間と同じように感情を持ってるかもしれない。本当はとても辛く寂しいかもしれないけど、語らないだけかもしれない。クララが思っていることを全て語っているとどうして言い切れるでしょうか。
人間の感情と、AIが認識する感情らしきもの、のどこに差があるのか。少なくとも、クララの目線で描かれる世界やジョジーに対する気持ちは、愛情に満ち溢れています。人とどこも変わらない。これだけ豊かな認知をもつクララなのだから、悲しみや苦しみを感じても当然では?それともやはりただの機械なのか。「悲しい」というフラグが電気回路の中で立っただけ?しかしそれは人間のそれとどう違う?
ジョジーを特別なものにしているものは、ジョジーの中にではなく、ジョジーを愛する人々の中にある、とあるのですが、だとするならばそれはクララも同じでは。
なんの分け隔てもないクララに対して、人間はさまざまな壁を作って分断しています。人間同士ですらそうであり、ましてやAFと人間には決定的な溝が人間側にあります。
クララがもつジョジーへの愛情と、ジョジーのクララに対する愛情は、そもそもの前提が違う。後半、クララの部屋をジョジーが掃除してあげるシーンは優しくて残酷。ぬきがたい分断を感じて印象的でした。
私自身、AFであるクララにたいする愛情、機械だとの割り切り、畏れ、罪悪感、違和感などさまざまな感情が湧き上がります。はたして店長さんはどのように折り合いをつけているのか、あれこれ考えてしまいます。
とても映像的でもあり、いつまでも残る余韻
今作はとても映像的に感じます。クララの視覚がボックスに分割されて認識されてるところも、なんだかディープラーニング中のコンピュータの内部を見ているような気分になります。
子供の目線なので全体的に低くて、ちょっとしたお出かけがまるで大冒険のように感じます。ごく限られた場面しかでてこないのに、そこがどんな場所なのか、イメージが浮かぶようでした。もっともこれは他の作品もそうですけども。
そしてやはり、この信頼できない語り手スタイルの文章、最高だなあ。。。少しずつ見えてくる世界の輪郭とか、見えないところがある、わからないところがあるというのがなんか子供の頃を思い出すようです。 「私を離さないで」に近い感じ。
そして信頼できない語り手であるクララは、最後まで本心を余さず語っていたのか。本当の気持ちを隠しているとしたらこんなに残酷で切ないこともありません。でもAIだからそう考えるように考えているまでであり特に問題ないかも。いやでもそうだとしても・・・と延々とループしちゃいます。
とにかく、今作も素晴らしかった。本当にいろんなことを考えさせられ、気持ちを揺さぶられる物語です。分断と倫理、不完全であるが故の人間性の不条理とかやるせなさについて考え込んでしまう。
落ちゆくお日様に一心に祈るクララ。いつまでも余韻が消えないです。
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