「忘れられた巨人」「遠い山なみの光」「夜想曲集」読了

引き続きイシグロ・モードで、あれから追加で3冊読了。

先ほどサイゼリヤで独り夕食しながら読了した「遠い山なみの光」がまたまたすごかったので書きたくなりました。

相変わらず、心に引っかき傷を作られ、しかもそれがなかなか治らない、といった読後感w

これ、最大級にほめてます。ますますイシグロ氏の本が好きになったきた。

いやーーー、、、おもしろかった。

戦後の長崎で育った悦子(わたし)は、再婚しイギリスに移住する。夫を亡くし、その後、長女が自殺してしまうという悲しい出来事があった。そこに、家を出て一人暮らしをしていた次女のニキが帰省してくる。その娘との会話と、イギリスに渡る前、戦後の復興期にあたる長崎での暮らしなど、自らの半生をを回想する、というもの。

一見、地味。

悦子(わたし)が、昔を回想してるだけで、それも、舅や夫との日常会話や、隣人との付き合いが中心。

戦後の復興期で、いわゆる軍国主義的な日本的価値観をもった人たちと、アメリカナイズされつつある世代との価値観のギャップがあり、すべての会話に「噛み合わない」感じがあります。

それがなんかもうすごい緊張感がある。

そして、読んでて感じるこの緊張感と、実際に書かれている会話の内容のギャップも大きく、余計、不安定感がある。うどん屋のおかみさんと普通の会話してるだけで、なぜこうも緊張感があるのか。。。

それが、怖い。なんかじわ〜じわ〜とずっと不安感がつきまとう。

イシグロ氏の長編小説すべてに共通してますが、どこまで本当のことなのか、とんでもない歪みがあるんじゃないか、という不安感が満載でした。

一方で、最新作(といっても2年前?)の「忘れられた巨人」は、文体も打って変わっており、こうした不気味さはない。

過去を忘れるな。歴史から学んで過ちを繰り返さない、とはよく言いますが、実は忘れることこそ不幸の連鎖を止めるのに必要なことではないだろうか?という感じのテーマでしょうか。

これが集団の場合と個人の場合でどう違うだろうか?みたいな対比、他にもたくさんの対比がストーリーの中に含まれています。ただ、これは他の長編作品にある、しっかりとしていたはずの足元の地面が、突然ぐにゃりと溶けてなくなるんじゃないか、という不安定感があまりない。が、これもまた引っかき傷できまくりであり、ものすごく面白かった。

ただ、個人的にはやっぱりそれ以前の長編のように、どこか不安定感のある感じのほうが好きかな。

さて、、、内容に入らずに感想を書くのはやはり難しすぎるし、とはいえ、このモヤモヤを吐き出したい。というわけで、以下は内容に立ち入るので、これから読もうとする人はここで引き返してください^^

しばらく空白続きます。

・・・・

・・・・

もうちょい・・・・

で、「遠い山なみの光」。

めちゃくちゃ読んでて不安だった。

とりあえず一回目の読書としては、ホラー感が一番残りましたw

なんですが、一方では全然違う読み方もできるわけで、咀嚼できず。

イシグロ氏の本は全部一回目ではまるで消化しきれません。

それでも面白かった、と思えるので不思議ですねえ。。。

さて、なにが怖いって、語り手である「わたし」の話がどこまで本当なのかわからないこと。

小説の技法で「信用できない語り手」とかいうらしいです。イシグロ氏のは「忘れられた巨人」以外は全部そうですね(「浮世の画家」はこれから読むのでわからない)。

悦子(=わたし)は、善良で従順な女性です。

いわゆる「昔の日本女性」(差別的な意図はないです)の典型のような感じです。女性の社会的立場は弱く、非常に差別的だった時代です。

「わたし」は恩師の息子と結婚して妊娠しています。

ある時、隣人とちょっとした会話があります。ちょい引用します。

「悦子さん、今日は少し疲れてるみたいよ」

「そうらしいわ」わたしはちょっと笑った。「でも、あたりまえなんじゃないかしら」

そりゃ妊娠してお腹も大きくなってるのです。当たり前です。

でも続けて、

「それはそうよ」藤原さんは、まだ私の顔を見ている。「でも、ちょっと — 辛そうに見えるんだけど」

「辛そう?そんなことぜんぜんありませんわ。ちょっと疲れてはいますけど、それ以外は、こんなに幸せだった時はないんですもの。」

という会話が。

まあ、これも当たり前で不思議なことはない。詳しくは語られないのですが、戦争の惨禍により「わたし」はとても辛い娘時代を経ている様子です。立ち直ってよかったね、というような文脈があり、「わたし」が持つ過去のトラウマのようなものが想起されます。

こうやって少しずつ他人から見た「わたし」の様子がわかってくると、「わたし」が言ってること、思ってることは、他人から全く違うように捉えられているんじゃないか。「わたし」が気づいてないだけで、、、という不安定な感覚が出てきます。

この小説は、こうした人と人とのすれ違い。理解し合えないこと。などが全編にわたって書かれているように思いました。

戦争前後の価値観のズレ、男女のズレはもちろんのこと、同じ女性の同世代の友人間もわかりあえない。「わたし」は自殺した長女の景子とも、活発であかるい次女のニキのことも理解できない。でもお互いに心が通ってないわけではない。思いやりがないわけでもない。幸せな時間を共有した記憶はたしかなものとしてある。こうした人の細やかな人情の機微のようなものに、共感したりしみじみしたり、切ないような気分になったりします。

だが、一方で!!

こっから本題なんですが、佐知子ですわ。

読み終わって最初に思ったのが、

万里子ってまさか自殺した長女の景子じゃないだろうか?

そもそも、佐知子って本当にいたのか?

と、もやもやもや。。。

わたし(悦子)は、結果的には、イギリス人の夫と再婚してイギリスに住んでいる。それはフランクと一緒にアメリカにいくという佐知子とかぶる。

そして心を開かず引きこもって最後は自殺してしまう景子と、佐知子の幼い娘、万里子の頑なで内向的な性格もかぶる。

閉塞している状況に、知らず知らずのうちに追い詰められていた「わたし」は、娘が一番大事といいながらもワガママに生きる佐知子を心の中で作り出してしまったんじゃないか、みたいな。

幼い万里子に対して無責任とも言える佐知子は、「わたし」に何度も言います。「悦子さんは良い母親になるわよ」と。「子供がうまれたらわかるわよ」ともなんども言われる。こういうのが、読み終わった今、不気味な余韻を残します。

さて、ある時、またも家を飛び出てしまった万里子。母親の佐知子は「ほっとけばそのうち帰ってくるわよ」と放任。心配になった「わたし」は万里子を探します。探す途中でなにか古い縄のようなものが足に絡まり、それを取り去る「わたし」。ようやく万里子を見つける。

「どうしてそんなもの持ってるの?」

「言ったでしょ。何でもないのよ。足に引っかかっただけ」わたしはまた一歩近づいた。「どうしたの、万里子さん」

「何が?」

「いま、変な顔してたじゃない」

「変な顔なんてしてないよ。どうしてそんな縄もってるの」

「変な顔してたわよ。とっても変な顔」

「どうして、縄持ってるの」

わたしはまじまじと子供を見た。その顔には恐怖の表情が浮かんでいた。

万里子に対していつも親切で優しい「わたし」。「わたし」の語りからは、万里子が「わたし」を怖がったり嫌う要素は全く見当たらない。

しかし、万里子はいつも冷たい。「わたし」はそれについて何も言わない。文句めいたことやがっかりした様子はおくびにも出していません。でも、万里子はいつも「わたし」の期待に背いている。

そして後日、渡米を嫌がり逃げ出した万里子。母親の佐知子は自分の荷造りに一生懸命でとりあいません。心配になって探しにいく「わたし」。

ようやく見つけた万里子は、アメリカになんて行きたくない、と訴えます。佐知子のために説得を試みる「わたし」。

「そう、ほんとうなのよ。言ってみて嫌だったら、すぐ帰ってくればいいのよ。でも嫌かどうか、まず行ってみなくちゃ。きっと好きになると思うわ」

女の子はまじまじとわたしを見ていたと思うと、「なぜ、そんなものを持ってるの」と訊いた。

「これ?サンダルに引っかかっただけよ」

「なぜ、持っているの?」

「言ったでしょ。足にからまっただけ。万里子さん、どうしたの?」わたしはちょっと笑った。「どうしてそんな顔でわたしを見るの。わたしが怖いことなんかないでしょ」

佐知子のために渡米を説得する「わたし」は一体誰なんだろう?

そして、何を持っていたのか。今度は、足にからまっただなんだのそんな記述は一切ありません。「わたし」が持っているのは提灯だけのはずなのに。。。

そして時はたって、イギリスで景子は首吊りをした。

あまりに相似が多いし、そういう連想を抱かせるように誘導してもいると思います。他にも巧みにいろんな相似が織り込まれています。癇癪持ちなのは二郎ではなくて、実はいつも穏やかで従順で親切な悦子(わたし)なのでは・・・?

だって「わたし」は信用しきれない。語っているのは「わたし」が話したいことだけだから。万里子を見つけた時、またも縄を持っていたのではないか。そんなに何度も足に縄が絡まるか?それを語らなかったのはなぜ?

・・・なんですが、「わたし」が悪意を持っていたとか、分裂的だった、、、とは言い切れない。それはちょっと穿ちすぎな感じはある。

当時、アメリカに行くという佐知子は、それが娘のためにもなると言った。女性に開かれた社会で日本の慣習に中で縮こまって生きるよりずっといい、と。

そんなこと思いもよらない、という風だった悦子(わたし)も結局、イギリスに景子を連れて行く。

その結果として、環境に馴染めなかった景子はついには自殺してしまう。

その自責の念から、「わたし」もかつての佐知子と同じじゃないか、「わたし」も佐知子と同じように娘をないがしろにしてしまったのかもしれない。

こういうふうに当時を回想しただけ、が自然な解釈か。

佐知子のおかげで、ただ忍耐するだけではなく、自分で自分の人生を決めていいんだ、という勇気を持った、ということかもしれない。現に、娘のニキや友人たちには、あの時代にそんな決断をした勇気ある婦人として尊敬されているらしい。

佐知子が幻想だったなんていうのは、まあ読み込みすぎ感はある。でもなあ、、、

まあなんかまとまりつかなくなって来ましたが、いわゆるクリーンな表の読み方と、ダークサイドな解釈と、両方楽しめるんじゃないでしょうか、ということでw

とにかく面白かった。これもまたしばらくたったら再読マストです。

・・・読み終わった興奮で一気に書きましたので、何言ってんの?おめー、全然ちげーよ、というのがあるかもしれませんが、まあ個人の感想ということでお許しください^^

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